東京二期会や日生劇場へのオペラ出演が相次いで決定し、注目を浴び続けているテノールの城宏憲さん。成功に隠された努力、その力の源泉など、今なお進化し続ける城さんに話を聞きました。
2016年2月 東京二期会オペラ劇場『イル・トロヴァトーレ』
東京文化会館/撮影:三枝近志
代役で急遽二期会デビューとなったマンリーコ役(左)
――子供時代はどう過ごされてきましたか。
物心つく前に両親が離別したので、母の実家のある岐阜県関市で幼少期を過ごしました。名字が変わり、保育園で先生に名札を付け替えられたことは今でも覚えています。手元には父の写真ひとつ無くて、インターネットが普及する前まではその顔も知りませんでした。だから、父の記憶は殆どありません。小学生から中学生の間は母と実兄の親子3人で暮らしました。ロボットのプラモデルや流行りの携帯ゲーム機に夢中になる、普通の男の子でした。僕たちを育てる為、教職に復帰した母のしつけは厳しかったですね。それでも時折、芝居や映画に連れて行ってくれました。こういう時は、いつも母は優しくて、幼い兄弟はここぞとばかり溢れ出る愛に甘えました。ですから、片親の家庭特有のもの寂しさは、劇場にいる時は不思議と忘れる事が出来ました。舞台への憧れの原点はここにあります……。
――とても素敵なお母さまですね。学生時代は音楽に関係のある部活か何かをされていたのでしょうか。
母は体育教師だったので、その影響もあって中学ではバレーボール部と駅伝部を兼部するほどのスポーツマンに育ちました。学業もそこそこに、生徒会やジュニアリーダーなど積極的に人前に立つタイプでしたね。その頃の将来の夢は「金メダリスト」でした。
――運動部に所属されていたんですね。活発な青年時代を過ごされた城さんが、音楽家になったきっかけを教えていただけますか。
運動のしすぎか遺伝かは分かりませんが、身長が急に伸びなくなったんです。部活動の夏の大会でも地区大会で敗れて、この先スポーツで食べていく自信をすっかり失いました。やる事もなく打ちひしがれていた15歳の夏、かつて心の穴を埋めてくれた舞台やお芝居に、僕は惹かれていきました。そして、当時よくTVで流れていた「3大テノール」のCM、その声に釘付けになる自分に気が付いたんです。これがクラシック=オペラ=声楽との出会いでした。 すぐに近所のCDショップへ行って、クラシックコーナーで微笑んでいたパヴァロッティを手に取りました。「僕はオペラ歌手になりたい」と、突然そう言い出したので母親も担任の先生も本当に驚いていました。体育教師の息子、スポーツ少年が一転、プロの音楽家を目指すと言うのですからね。
初めて買ったパヴァロッティのCD、楽譜、三大テノールの雑誌
――声楽家になるための勉強を始めたのはいつごろからですか。
その中学3年の夏休みからです。初めはピアノの「ド」がどこにあるかも分かりませんでしたが、半年間の特訓を経て隣町の加納高校へ進学しました。当時も今も、岐阜県下で音楽科のある高校は珍しく、そこで3年間みっちり音楽の基礎を叩き込んでもらいました。お小遣いで初めてオペラの全曲版CDを買ったのもこの頃です。それは、カラヤン指揮の『蝶々夫人』でした。着物を着た古い美人画みたいなジャケットで、何となく気になって手に取ったんです。そしたら「歌劇」って書いてあって、大好きなパヴァロッティの名前が刻まれていたので衝動買いしたんですね。家に帰ってリブレットを読みながら聞いていると、まず日本の長崎を舞台にしたお話なのに、全編イタリア語で演奏されていることに衝撃を受けました。あとはプッチーニの音楽の壮大さ、雄弁さ、そして残された蝶々さんの子供の存在が胸に引っかかりました。
――高校の3年間で基礎を学び、その後はどのように勉強を続けられたのでしょうか。
家庭の事情で、大学は国公立しかいけない事は分かっていましたから、必死に勉強しました。諦めないで指導してくれた先生達のお陰で、何とか現役で志望校に合格。それなのに、大学では授業もそっちのけで練習ばかりしていました。後にも先にも歌うのが好きで好きでたまらなかったんです。まず、大学の図書館でオペラの楽譜を借りてきて、持ち出せないものはコピーして、授業が終わった講義室で守衛さんが見回りに来る午後11時頃までオペラを全曲さらうんです。ロッシーニ、ベッリーニ、ドニゼッティ、ヴェルディ、マスカーニ、プッチーニあたりは片っ端からさらいました。どのレパートリーが自分に合っているのか、自分の「声」が知りたかったんだと思います。
そんな風変わりな自分に、大学院の先輩が興味を持ってくれて一緒に夜中にオペラアリアを歌ってくれたり、お酒を飲みながらとことん発声談義をしたのは本当に良い思い出ですね。こんな風に4年間、声楽の授業以外、まともに単位を取らないで練習ばかりしていたから、卒業単位はギリッギリで。お恥ずかしい話ですが、声楽科の1学年下の後輩、未来の妻えりかの助けも借りてなんとか卒業という具合でした。そして翌月、22歳で父となると同時に、新国立劇場に学びの場を移す事になります……。
――新国立劇場の研修中、印象に残る出来事などはありましたか。
オペラ研修所では貴重な経験ばかりさせてもらいました。特に印象に残っているのはボローニャ研修です。イタリアに行くのが初めてだったのでカルチャーショックの連続で、それを仲間と話すのがとにかく楽しかったですね。お風呂に浴槽がないとか、スーパーに豚肉の薄切りが売ってないとか、バールのエスプレッソが美味しすぎるとか、中国人によく間違えられるとか。どうでもいい事に思えて、こういう日本とヨーロッパの身近な事柄の違いが、奏でる音楽に出てくるんだと肌身で感じることが出来ました。
オペラ研修所の3年間の厳しい研修に耐えられたのは、華やかな新国立劇場の講師陣、先輩達、そして同期のみんなのお陰です。今でもみんな第一線で活躍しているし、あの頃は何の遠慮もなく技も心も磨き合いました。演劇の本場イギリス出身の講師陣から、感情を伝える演技の基礎を学べたのも大きな収穫でした。歌う事と同等に、演技をする事も好きな自分を発見しました。
2017年2月 東京二期会オペラ劇場『トスカ』
(東京文化会館/撮影:三枝近志)
声楽と演技の両立を目指したカヴァラドッシ役
――城さんはその後、イタリア留学を経て、日本音楽コンクールで優勝して注目を集めました。プロの声楽家となった今、どのようなことに取り組んでいますか。
声楽家に必要な努力って、自分の目標とする表現の為に、「年齢と共に変化するもの」に全力で対応し続ける事だと思うんです。ただし、年齢に打ち勝とうとして筋力的なトレーニングをするだけでは、体は筋肉質に変えられても、声までもが固く鈍いものに変わってしまいます。様々な物理的・心理的な変化に柔軟に対応できる事、そして他者に侵されない絶対的な自分の領域(アイデンティティー)を持つことが、世界の音楽家・演出家に対峙する為に必要不可欠なんです。
僕の人生は常に1割の成功と9割の挫折の繰り返しでした。それは、挑戦という変化を恐れず、自分を育んだものへの愛を貫いた結果でした。人生で3度受けた静岡の国際コンクールでは結局上位入賞はできず、優勝したのはスカラ座研修所出身で同い年の韓国人テノールでした。彼とは違い、「お前は世界に通用する確かな声を持てていない」と、審査員に突きつけられた厳しい現実。受賞式のパーティーで審査員の一人ガブリエラ・トゥッチさんに跪き「Mia Tosca ideale(私の理想のトスカ)!」と賛辞を述べたものの、優しく手を差し伸べられつつ返って来たのは「Studia(お勉強なさい)!」の強烈な一言だけでした……。「ここまで来てまだ勉強、勉強なのか。」何が自分に足りないかも分からず路頭に迷っていた時、窮地を救ってくれたのは、大学時代の恩師・スカラ座の大プリマ、林康子先生でした。横隔膜の使い方、子音と母音の舌の動き方、そして正しく息を使い切るフレージング。足りないものを全て教えてくれる先生の凄さに、イタリア留学、そして武者修行から帰ってきて初めて気がついたんです。そのお言葉の意味が、やっと理解ができるようになったと言った方が正しいかも知れません。それ以降、康子先生のご自宅は、まるでかつてのイタリアの劇場のようにハイレベルな「声」の修練の場になりました。
テノールの星々達を間近で聞いた先生の耳、世界を渡り歩いた未だ健在なその比類なき美声を頼りに、今ではほとんど失われてしまった20世紀前半の発声技術を、妻のサポートを受けながら日々学んでいます。
大学時代の恩師で、今もその御指導を仰ぐソプラノの林康子先生(左)、
声楽科の一年後輩の妻えりか(右)