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ピックアップアーティスト Vol.38 安井陽子の今

Interview | インタビュー

2008年『ナクソス島のアリアドネ』ツェルビネッタから10年 今を生きて、今を歌う。ソプラノ安井陽子の輝き

知らない人たちと「はじめまして」はわりと平気

いわゆるサラリーマン家庭で育ちました。音楽家という人は周囲にはいませんでしたが、母がクラシック好きで、よくモーツァルトを聴いていました。幼稚園の課外音楽教室にお試しで連れて行かれ、音感がよくて褒められたので、(気をよくして)小学校1年生から近所のピアノの先生のところへ通わせてもらいました。でも専門に進むという考えは、私自身にも両親にもまったくありませんでした。鈴木メソッドの先生だったので、バイエルも弾いてないのです。

小学校2年生のとき、父がシンガポールへ転勤になり、家族で移り住みました。当時は、日本人が多く駐在していて、日本人学校は7クラスありました。シンガポールは多国籍国家で、父の会社の運転手さんはマレー人、お手伝いの人は中国人でした。マンションで仲良くしていた米国人の家族に5人兄弟がいて、そのうちのターニャという女の子とよく遊びました。子どもなので、英語と日本語の単語とジェスチャーで十分意志疎通ができたのです。シンガポールは常夏ですから、一年中泳げました。もう真っ黒に日焼けして毎日、泳いでいました。今にして思うと、そうやって一日中遊びまわっていましたので、体力もついたし、健康になったのだと思います。また父の仕事の関係でお客さんがいらっしゃると、家族も一緒に、といわれることもあり、言語も国籍もさまざまな人がいるところへ「はじめまして」という機会が多かった。オペラの現場も、さまざまな国から歌手やスタッフが来て、「はじめまして」から共同作業で舞台を作り上げますので、そのことにつながっている気がします。

初めて観たオペラは、ヤマハホールで映画上映された『魔笛』でした。小学校2年生(シンガポールに移り住む前)のとき、母に連れていってもらった記憶があります。夜の女王は、印象的でしたが、幼心には、パパゲーノ、パパゲーナに魅了された記憶があります。母は、若い頃に見た、NHK主催の「イタリア歌劇団」来日公演の、モンセラット・カバリエ、マリオ・デル・モナコ、レナータ・テヴァルディや、ホセ・カレーラスが初来日した時のレナータ・スコット主演の「椿姫」の伝説の公演の際に早朝から並んでチケットを取り、公演が素晴らしくて興奮冷めやらずと、さまざまな歴史的な公演の話をしてくれました。知らず知らずに影響を受けたかも知れません。

初めて声楽を志す

小学校6年生の6月に帰国し、父の実家があった茨城県の結城小学校へ編入、その後、家族で東京へ移り、9月から世田谷区の桜町小学校に通いました。転校のタイミングで修学旅行に行けなかったのが今でもちょっと心残り。勉強はしない子で、中学校はバスケット部、高校はテニス部でした。ピアノも続けていて、音楽の授業も好きでしたが、当時カラオケが流行っていて、友だちとよく行きました。中森明菜とか、松田聖子の物真似が得意でした。「まっさかさーまーにー」(DESIRE)って熱唱していました(笑)
高校2年の2月、いよいよ進路を決める時期。身体を動かすことは好きだったので、体育の先生とか、面白いことを言って笑わせるのも好きだったから、友だちには「陽子、お笑いやったら」とか。人前で何かパフォーマンスすることは好きでした。リレーのアンカーも、ピアノの発表会も、同じ線上にあったのです。

-とはいえ、高校生でベートーヴェンのピアノソナタ第21番「ワルトシュタイン」、とかショパンの「幻想即興曲」を弾いていた、というので、ピアノはかなりの腕前である。

音楽に関わる仕事もいいな、子どもが好きだから幼児教育とか、リトミックとか-それで本屋さんで「音大一覧」を買って来ました。父に話すと、ある音楽大学の教授の欄に、父が、ドイツのフランクフルトに留学していたとき、つきあいのあった日本人の音楽家夫妻の名前を見つけたのです。翌日すぐに連絡をしてくれ、その時に弾いていたショパンの「幻想即興曲」を聴いて頂く機会を与えてくれました。
ヨーロッパ風の素敵なお家で、ソファーもふかふかでグランドピアノもあって、私からすれば別世界。「音大を受験しますか?」と問われ、張り詰めた雰囲気の中、不安な気持ちの小さな声で「はい」とお返事したことを今でも良く覚えています。「ずいぶん自己流ですね」と言われて、それで受験に間に合うかどうか分からないけれど、基礎からやり直さなければ、ということで毎日3時間、ハノンから練習をすることになりました。必死で練習したのですが、それまで好きだったピアノが楽しくなくなってしまった。腱鞘炎などではなかったのですが、指が動かなくなってしまったのです。とうとう5月に「やっぱりピアノ科は難しいでしょう」ということになりました。
教授の夫人は著名な声楽家でした。「ちょっと奥さんに声を聞いてもらってください」、それで今度は夫人のレッスン室へ。名実ともにプリマドンナで、豊満な美しい方で、全てパワフルなオーラいっぱいの風格で、レッスン室中に大声量の美声で「ア~ア~ア~ア~ア~」と音階を歌ってみせてくださって、「はい、やってごらんなさい」。それで「ア~ア~ア~ア~」と初めて歌いました。忘れもしません。そのとき「コレだ!」と思いました。全身で表現する喜び!ビビッと来たのです。もしかしたらその前、3カ月間、ピアノに行き詰まっていましたから、開放感があったのかも知れません。「コンコーネと、イタリア歌曲を持っていらっしゃい」。その日からピアノは副科になりました。
夫人はとても厳しい先生で、ジーパンでレッスンに来てはいけません、電話は10時半か夜は8時半にしかかけてはいけない。電話でお話していても緊張して「ハイ、ハイ」とだんだん声が震えてきて、ついに「ヘイ」って言ってしまったりするんです。笑い話みたいですけれど。
桐朋学園大学を受験することになり、声楽の課題曲は8曲。それとは別に、ソルフェージュ、聴音(2声、和声)、それに新曲視唱(リズム打ちつき)の特訓が始まりました。両親は音大受験のことはさっぱり分かりませんし、羽が生えたみたいにレッスン代がかかりましたし、「大丈夫なの?」と。桐朋学園大学を目指す人は、「子どものための音楽教室」などで音楽の特別教育を受けてきた人も多く、皆よくできるのです。当時、夏期講習はA~Pのレベル別をされて、私は一番下のPクラスで本当に大変でした。「4分の3拍子、8小節、アウフタクト」といわれたら、9小節分用意しなくてはいけないことも知らなくて、「小節数が合わない!」と半泣き。先生が根気強く教えてくださって、今でも「本当にあの時の陽子ちゃんがねぇ」って。私は元々不器用ですから、できない生徒の気持ちがよく分かると思います。兎に角、初めの頃は何をやっても叱られてしまう生徒でした。でも、歌うことだけは嫌になったことは一度もありません。声楽の道に導いて下さった恩師に心から感謝しております。

-苦労の末、無事に桐朋学園大学声楽科に現役合格した。大学の同期には、ピアノの朴 令鈴さんがいて、本音でアドヴァイスをしてくれる尊敬している親友のひとりだ。大学卒業後、二期会オペラ研修所では大学の授業でもお世話になった伊藤 叔※のクラスに入る。伊藤は米国生活が長く、はっきりとものを言い、飾り気がなくて、音楽には厳しいが、言葉に愛情があり、熱意をこめて教えた。安井は伊藤に可愛がられ、晩年の闘病生活をほかの弟子とともに支えた。

この頃、声帯に結節ができたりして、つらいこともありました。日本舞踊を習った事もとても楽しい思い出です。花柳千代先生には本当にお世話になりました。そして、合唱の仕事もいただき、主に小中学生に向けて演奏するスクールコンサートで1日3公演というとてもハードなスケジュールもしばしばでした。でも、子どもたちを前に歌うのは大好きで、今も子供たちに歌い伝える機会を、大切にしたいと思っています。現場では、よいマネージャーさんと会えていろいろアドヴァイスをいただけたし、鍛えられたと思います。

ウィーンでの生活を振り返る

-結婚後、同じく声楽家の夫に薦められて、文化庁在外研修員に応募する。厳しい審査を経て、平成17年度、文化庁在外研修員として、ウィーンに留学した。

ウィーン夏期講習で初めて訪れたフィガロハウスの前
ここの窓からモーツァルトも同じ風景を見ていたのかしらと想像

ウィーン留学中の住まい

留学というのは、行けばよい、というものでもないと思います。そこで何を見て何を聴いて、何を感じるか。ウィーンは空気が乾いていて、天井が高いから、声を出すとよく響いて上手になったような気がする。ウィーン国立歌劇場に通い、並んで、立ち見でオペラを本当にたくさん見ました。ムジークフェライン(Wiener Musikverein/ウィーン楽友協会)では、マウリツィオ・ポリーニ(Maurizio Pollini)のピアノを聴きました。しばらく現実の世界に戻れないくらい感動しました。(ポリーニがピアノでカール・ベーム指揮/ウィーン・フィル/モーツァルトのピアノ協奏曲第23番と第19番のCDはお気に入り)また、ジャズピアノのキース・ジャレット(Keith Jarrett)も生で聴きました。ジャズには、どこか、非現実的な、薬物的な狂気を感じさせるものがある、とこの時思いました。レッスンでは、私の前に受けている私より10歳以上若い男子学生のドイツリートの上手さに、感激していました。彼は、学生の時にフォルクス・オーパーでデビューし、声も音楽性も抜群でした。
音楽は一瞬で消えてしまうけれど、かけがえのない時間の記憶は残ります。恩師のラルフ・デーリング先生(Ralf Döring)がオーディションのきっかけを作って下さって、クラーゲンフルト市立劇場「若き貴族」(ヘンツェ作曲)でのデビューにつながったこと、日本人の奥様の弥生さんが、言葉の面でも色々助けて下さったことなどを思い出しても、留学中も皆さんに支えられ、本当に恵まれていました。正に“音楽の都”ウィーンで実際に生活して、ヨーロッパの文化に沢山触れることができました。ウィーンでの充実した日々は、夢のような時間で、貴重な財産です。

クラーゲンフルト市立劇場「若き貴族」より

「若き貴族」稽古のひとコマ

クラーゲンフルトに滞在中、身体を鍛えつつ、良く散歩をしました。

夜の女王という役

初めて夜の女王役を歌ったのは、2006年オーストリアのフォアアールベルク州立劇場(Musiktheater Vorarlberg)主催。フォアアールベルク州の Götzis(ゲツィス)の小さな劇場で7公演とブレゲンツの劇場1公演でした。真冬のウィーンから列車で約8時間もかけてゲツィスに行き、私の出る幕は翌日と聞いていたのに、劇場に到着して会場に入ったら、舞台上に14番のアリア場面がセットしてあり、挨拶後、発声もできないまま、すぐに夜の女王のアリアを歌うことに。ゲツィスへ向かう列車に乗っている時に、歯の詰め物が取れてしまい、ウィーン→ゲツィス→歯医者→劇場→突然アリアを歌う、という顛末。ゲツィスはドイツ語の訛りがあって、始めは会話に苦労しましたが、皆さんとても親切で色々と教えて下さり、特にパパゲーノの方はウィーン少年合唱団出身の方で、演技も歌も全て自然で、さすが!と沢山刺激を受けました。

初めて夜の女王を歌った公演のカーテンコール

夜の女王という役は、同じコロラトゥーラのツェルビネッタ(ナクソス島のアリアドネ)や、オランピア(ホフマン物語)とも違い、非常にインパクトの強い役です。最初の4番のアリアは4分半、次の14番のアリアは3分弱でカップラーメンができる時間には終ってしまう短さですが、モーツァルトの才能が凝縮された、名曲中の名曲だと思います。歌い手にとっては、コンディションがよくても、本番がどうなるかは歌ってみないと分からない。オリンピックだって、集中力を失ったり、一瞬の緊張で普段できたことができなくなったり、逆に本番非常にうまくいったりする。本番は、本番にしかない、言葉にならない空気があります。

-夜の女王を歌う直前にはどんなことを考えていますか?

自分が生まれて生きていること、私が歌うことで喜んでくださる人のことを考えます。あとは無になって、自分ができる夜の女王を歌おう、と。私の中に、こうありたい、という夜の女王の表現、声、音色があって、何回やっても、全部が完璧にできるということは難しい。
本当によい音楽は、一声で心に響きます。エディタ・グルベローヴァ(Edita Gruberová)の声は、一声聴いただけで涙があふれ、夢の世界へ連れていってくれる。私が聴いたとき、彼女は60歳を過ぎていましたが、誰よりも若々しい、輝き、宝石のような声でした。
どんな大きな劇場で歌っても、小さなところで歌っても、その人自身が今、感じていることしか伝えられません。常に練習をして、基礎が大事。土台となる心も身体も健康でなくてはいけません。そして努力しなくては。機械じゃないから、気持ちがあってもボタンを押したら声が出る、というものではありません。大変な仕事なんだけど、歌うことが好きだし、喜んでくださる方がいるから。

今後の舞台など

先日まで、新国立劇場「ホフマン物語」でオランピアを歌っていました。演出のフィリップ・アルローさん(Phillippe Arlaud:パリ生まれ)、今回は残念ながら、お会いできませんでしたが、2014年の新国立劇場「アラベッラ」の時の演出で来日されました。とてもいい方で、稽古が連日続いて、皆疲れてきて、煮詰まったりもするのですが、すごく明るくて「さあ!稽古はここまで。飲みに行きましょう!また明日ね!」じゃね、みたいに手を振って帰るのです。舞台もとてもお洒落。
そして、夜の女王を、今年10月に新国立劇場で歌わせていただきます。この役は喉を酷使しますし、年齢を重ねると声はやはり少し重くなりますから調整が必要になってきます。でも、これも挑戦と。「自分自身との闘いです。また新たな挑戦です!」。伊藤 叔先生は「役の呼吸になりなさい」とおっしゃった。いつも私が心がけるようにしていることです。
久石 譲さんの新作、「THE EAST LAND SYMPHONY」と2016年ジルベスターコンサートで「もののけ姫」と「アシタカとサン」を歌ったことがきっかけで2017年、年末の「カルミナ・ブラーナ」のお話もいただいて、この曲もレパートリーとして大事にしたいと思っています。これまでに歌っていない役では、イタリア・オペラへの憧れがあって、ルチア、ジルダは歌ってみたいです。10年経って再びツェルビネッタも違った表現がしてみたいと思いますし、宗教曲、R.シュトラウスやマルクスなどの歌曲も積極的に取り組みたいと思っています。
自分の声が活かせるものであればジャンルにとらわれずに、歌っていきたいと思います。楽器を大切にしながら・・・。

2016-2017年ジルベスター終演後に久石 譲さんと

2017年7月 東京フィル公演 マーラー「復活」にて 指揮者チョン・ミョンフンさん(中)とメゾソプラノ山下牧子(右)

すべてが歌うことにつながっていく

2011年に長男を出産。初めてのことで、全てが未知の世界で(今もですが)、高齢出産を心配していました。実際の出産は鍛えられた腹筋のお蔭でありがたいことに安産でした。
出産3カ月後に「二期会60周年チャリティーコンサート」で演奏活動に復帰。その後、長女が生まれ、今や6歳と2歳の母親。子ども中心で生活がまわり、目まぐるしい日々ですが、どんどん成長していく子ども達の姿にパワーをもらっています。
2008年にツェルビネッタでオペラデビューして10年。その間、大きな震災もあり、苦しんでいる方が大勢いらっしゃいます。“今”を大切に、生きていることに喜び感謝し、少しでも皆が笑顔でいられる明るい世の中になればと、いつも願っています。

※…伊藤 叔 (いとう よし) ソプラノ
1939年11月1日―2002年12月8日
東京生まれ。桐朋学園女子高音楽科〔1958年〕卒,マンハッタン音楽学校声楽オペラ科〔1964年〕卒。
ジョイ・イン・シンギング・リード・コンクール第1位。1968年よりアビーシンガーズ五重奏団、ニューヨークのメトロポリタン・オペラ室内劇場、1972年ニューヨーク・シティ・オペラ、1975年ドイツのニュルンベルク・オペラハウスで専属のソプラノ歌手として活躍。オペラの他、“伊藤と20世紀の音楽を楽しむ会”などでドイツやフランスの現代歌曲やミュージカル曲の普及に努めた。桐朋音楽大学教授。二期会オペラ研修所でも後進の指導に取り組む。2002年病気のため惜しまれて逝去。
安井が在籍した二期会オペラ研修所第43期 伊藤 叔クラスから、菊地美奈、木下美穂子、磯地美樹、高橋 淳、望月哲也ほか、優れた歌手を輩出している。