スケール感ある優れた音楽性と優美な演唱で、数々の国際舞台で絶賛される名歌手、大村博美(おおむら ひろみ)。2017年2月、東京二期会《ローマ歌劇場との提携公演》『トスカ』への主演を目前に一時帰国している。2017年は10月の東京二期会『蝶々夫人』にも主演。内外で活躍する旬の歌姫にトスカへの想いや音楽を通じて伝えたいメッセージを伺った。
2016年7月 モーツァルト『フィガロの結婚』伯爵夫人
撮影:三枝近志
蝶々夫人を今までに何回歌っているかと最近よく質問されるので改めて数えてみたら、2004年から世界12ヶ国で95回公演し、昨年秋のラトヴィア国立オペラで96回目でした。まだまだこれから世界中で歌い続けていきたいです。蝶々夫人の役を通じて、声でドラマを表現することを学んできました。トスカを歌い始めるのに声の上でも演技の上でもちょうどいい時期ではないかと思います。今一番歌いたい役トスカを、それも素晴らしいキャストで、ローマ歌劇場の演出で歌わせていただける事に感謝しつつ、心に訴えかけるトスカを目指しています!
歌姫トスカはイタリア人でローマの人、オペラ界の華麗なプリマドンナですが、深い信仰心を持って、自分のためというよりも常に人の為に祈りを込めて、いつも神様に向かって歌う純粋な心の人です。1幕の登場で、トスカがマリア様の像に向かって跪いて祈る短いシーンがありますが、プッチーニはこの場面で本当に美しい音楽をつけて、トスカの心と人柄を表現しています。今、立ち稽古を毎日しながらトスカの心を感じ、その人生を生きる作業を重ねていますが、なんて魅力的なキャラクターだろう!と音楽と脚本の素晴らしさに改めて完全に脱帽しています。“プッチーニの音楽は映画のようだ”というのは常々私の自論でした。蝶々夫人やトゥーランドットでそう思っていましたが、このトスカで、その自論は確信に変わり、立ち稽古の第1日目の顔合わせで演出家のTalevi(タレヴィ)氏が全く同じことをおっしゃったので、この演出家は話がわかる!と意気投合しました(笑)。これほどドラマに少しもたるみがなく、常にハラハラゾクゾクさせてくれる作曲家は他にいません。現代においても全く時代の古さを感じさせない、それどころか生き生きとエキサイティングな音楽!蝶々夫人を歌い演じる時にいつも感じる心地よい興奮を、このトスカでもまたさらに強く感じながら歌い演じています。
今、日本で、また世界中で、天変地異やテロなどの犠牲になって苦しい思いをしている方々や出口の見えない深刻な問題に苦しんでいる方達が沢山いらっしゃいます。災害によって苦しんでいらっしゃる方々、テロの犠牲になった方々とご遺族…。私は現にテロの脅威にさらされているヨーロッパ(フランス)に住んでいるのですが、身近に苦しみ悩んでいる人達に接する機会がある毎日を過ごしていると、平和と愛に満ちた美しい明日が訪れることを毎日心から真剣に願わずにはいられません。
トスカに話を戻しますが、トスカも否応なしに苦しい立場に追い込まれた人です。
一所懸命愛を持って誠意を持って生きていたのに、貧しい人や苦しんでいる人達をできる限り助けながら、みんなの幸せを祈って愛をこめて歌い生きてきたのに、2幕では独裁者のスカルピアに、“恋人の命を救いたかったら自分に身を任せろ” と迫られ、「神様、どうして私にこのような試練をお与えになるのですか」と、苦しみながら精いっぱい神様に向かって問いかけます。みなしごで、修道院でシスター達に育てられたトスカにとって、神様は最愛のお父さんなんです。お父さんは自分を愛し、護り、慈しんでくれると信じ、自分も真心こめてお父さんである神様を愛してきた。それなのに、どうしてなんですか、お父さん!どうして!
あのアリアは私にとって、無邪気な小さな女の子が父親に苦しみを訴えているような歌に思えます。歌っていて本当に泣けてきます。トスカの心を感じながらその感情を声にこめて歌いたいと思います。
今までにやったことがまだなくてぜひやりたい役は、『ファウスト』のマルグリート、『ドン・ジョヴァンニ』のドンナ・アンナは前々からやってみたかった役です。アイーダ、『運命の力』のレオノーラもやってみたいですね。
今までにやってきている役の中で、これからもずっと歌い続けていきたい役は、蝶々夫人、ノルマ、『フィガロの結婚』伯爵夫人、『ドン・カルロ』のエリザベッタ、『オテロ』のデズデモナ、『イル・トロヴァトーレ』のレオノーラ等色々あります。トスカもこれからずっと歌い続けていきたい役です!喜怒哀楽がはっきりした人間らしいキャラクターで、しかも、自分の命よりも大切にしているものがある役柄にとても魅力を感じます。
2011年3月に起こった東日本大震災後、日本の為のチャリティコンサートで4月にパリのシャンゼリゼ劇場、9月にロレーヌ歌劇場で歌わせていただき、自分の国、愛する日本への愛を胸一杯に感じながら歌う年になりました。シャンゼリゼ劇場ではマルタ・アルゲリッチさん、シルヴィ・ギエムさんやナタリー・デセイさんなど素晴らしいアーティストの方々が、日本のためにパフォーマンスしてくださることに感謝の気持ちで一杯になりながら日本歌曲を歌い、ロレーヌ歌劇場ではホセ・クーラ氏がご厚意で出演して下さり、『蝶々夫人』から二重唱など一緒に歌って下さいました。どちらのコンサートでも、歌いながらどうしようもないほど日本への愛が心にあふれて苦しいほどでした。そういう道のりを経て、その年の10月に初めてノルマ役(べッリ-ニ作曲『ノルマ』)を全幕ローザンヌ歌劇場で歌ったのですが、登場のアリアCasta diva(清らかな乙女よ) を歌いながら、日本への想い、日本の方達への愛が胸いっぱいにあふれてきました。このアリアの音楽と歌詞が、その時の私の日本の平和を祈る気持ちを見事に代弁してくれていたのだと思います。歌うのが仕事の私には歌うことしかできない。だからこそ、精いっぱいの愛をこめて、歌うんだ!という、人生の転機になる公演だったといえるかもしれません。
私が音楽を通じて伝えたいのは、「あなたは1人じゃない」というメッセージなのかもしれない、とこのごろ思うんです。私自身のことを振り返ってみると、音楽が、歌がなければ、元気に今まで生きてこられなかったと思います。魂のこもった素晴らしい演奏を聴いて、生きていく勇気、力を奮い起こしてもらったことが数えきれないほどありました。
私は音楽に何度も救われました。だからその恩返しがしたい。今私はそういう気持ちで歌っているんです。辛い境遇の中で苦しむ人の、心からの深く切実な祈りが天まで届くように、と願いをこめて歌う。例えば、『蝶々夫人』の中で、歌い演じていていつも心が熱く泣きそうになりながら歌い演じる箇所がいくつかありますが、その中でもとくに好きな場面のひとつ、周り中が敵の苦しい境遇の中で、子供に向かって、“見ておいで坊や、お前のお父さんが私達を遠いあちらの国に連れて行ってくださるんだから!!”と半泣きになりながら言い聞かせる(自分自身に)シーン。あのシーンで、私は、世界中の苦しい境遇の中で頑張って生きている人達のために、と念じながら歌っています。自然にそういう気持ちになるんです。
音楽に愛のメッセージをこめて、そしてそれを受け止めてくれる人がいて、少しでも美しい世界になりますように祈ってやみません。