-インタビューを行ったのは5月下旬。新国立劇場20周年記念『フィデリオ』の初日が開いて、2日目の公演を前にした、貴重なオフ日。「晴れていたら、自転車で多摩川の方まで走りに行こうかと思ったけど、天気悪いし、家でゴロゴロしていたところですから。じゃあ今から行きますよ」とひょいと千駄ヶ谷へ。
身長190cmの偉丈夫でありながら、「どうも」と首をすくめて(ドアにぶつからないように)いらっしゃいました。
さっそく、今回の『フィデリオ』についてうかがいました。
新国立劇場には245回の出演。33役か34役、出演させていただいています。
-20年という年月で変わったこと、変わっていないことをうかがってみる。
自分では、自分のことはあんまり変わってないと思うんだけど。
-20周年という新国立劇場のメモリアルイヤーに上演されることになった『フィデリオ』のロッコは、妻屋にとっては初役。
ベートーヴェンは、現代曲というわけではないけれど、非常に音が取りにくい。予測がつかないような(音の)動きが器楽的に書かれています。オーケストレーションを見てみると、歌手が歌うパートも、歌というよりも楽器のひとつとして、書かれていることがよくわかる。ソロの部分は、メロディーもきれいで、音もとりやすいです。しかしアンサンブルになったとき、旋律以外の音を歌う役は、こういくだろう、というこれまでの常識が通じなくて、歌いにくさを感じる。考えてみると、ベートーヴェンの曲は「第九」「ミサソレムニス」のソロで歌う部分は歌いやすいし、すごくいいメロディーだけど、合唱は大変じゃないかなぁ。
-日本での仕事が増えてきた最近、オペラ、コンサートの出演者として、妻屋の姿を見ない日はない、ひっぱりだこの歌手ですが、オペラ歌手になったきっかけをうかがってみました。
W.A.モーツァルト『魔笛』ザラストロ/2015年 東京二期会オペラ劇場
中学生になってから、ブラスバンドに入りました。声変わりする前は、高音がよく出てボーイソプラノでした。それがどんどん低くなっていって、それと同時に身長が伸びていった。中学1年のとき身長159cmだったのが高校1年で183cm、大学で189cm。中学校から、ブラスバンドにのめりこんでずっと続けていたのですが、中学校2年の2学期に、音楽の先生が「歌をやりなさい」と。その理由が、休憩時間に廊下なんかで友達とふざけていたりすると
「妻屋君の声だけが音楽室まで聞こえる」と。小学校の時から、クラスでわいわい騒いでいると僕の声だけが職員室まで通るらしくて「おい、妻屋お前、騒いでいたな」と僕だけしかられたりした。だからそのときも「叱られているのかな」と心のどこかで思ったのです。それから中学校3年になったとき、通常の部活動のほかに、必修クラブというのがあって、その時間は部活動と違うクラブをやる、というカリキュラムだった。僕はバスケットボールを希望したのです。中学校になって背も伸びたからやりたいな、と思って。でもなぜか、(バスケには)入れてくれなくて、男声合唱クラブに強制的に入らされた。クラブの初日に行ってみたら、全校のやんちゃが多く集められていた。中には優等生もいましたけどね。経種廉彦さんの弟さんも入れられたんです、兄さんが歌で有名だったから。兄貴が歌がうまいからって俺がうまいとは限らないじゃないか、とちょっと恨んでましたよ。
-経種廉彦さんは、妻屋の2つ年長で、当時すでに歌が上手い生徒として、松江北高校に進学、音大を目指す先輩だった。(弟さんはその後、家業の畳屋を継いでいらっしゃいます。)
ところが、僕は、その合唱にはまっちゃったんだ。最初の発表は校内音楽コンクールで「箱根八里」を歌う、というものだった。それから、クラス対抗の合唱コンクールで、当時3年生は9組まであった中、優勝候補といわれていたのが3組と6組。下馬評では(優勝は)3組が圧倒的だったのです。でも結果は6組が優勝。そのとき、妻屋君がいたから、なんていわれてちょっと気をよくしたりして、面白くなったんですね。中学3年の終わりの頃には自ら「歌をやりたい」というようになったのです。
-それにしても、中学校の頃から、妻屋を声楽の道へ、導いていった先生方の動機は何だったのだろうか。妻屋は、高校の時は吹奏楽部と合唱部の両方に所属。その合唱部は高校3年のとき、NHK合唱コンクールで全国3位、その次の年には全国優勝した。
高校の音楽担当で、合唱部の顧問でもあった勝部俊行先生に声楽を習い、その後、勝部先生のご紹介で森山俊雄先生に教えていただきました。勝部先生は現在、島根県合唱連盟理事長をつとめ、島根だけなく、広く活動をされています。また森山先生の門下から、栗山文昭氏(合唱指揮)、福島明也(バリトン)、錦織健(テノール)、田中誠(テノール)、経種廉彦(テノール)ほか、錚々たる音楽家を輩出しています。松江には、文化的な感性があるのではないでしょうか。音楽も盛んだし、よい音楽、よい資質を見出す耳をお持ちの先生がいらっしゃった。
-そんな環境にはありましたが、音楽へ進むことを申し出ると。
両親は、逡巡した結果「学校はちゃんと卒業しなさい、国立(大学)ならよい」とのことで、芸大(東京藝術大学)を受験することになった。しかも、先生が併願はダメだ、というのです。
それから、ピアノを習い、ソルフェージュの特訓をし、受験に備えました。そうして合格したら、今度は、「教職は絶対に取りなさい」と。僕が舞台歌手になるなんて思ってもいなかったのですね。
卒業する段になると、母校へ教育実習に行きました。実習のために一生懸命ピアノも練習して、授業プログラムも作成し、レポートも書いて、けっこう生徒にも受けて、充実感もあったのですが、「教員ではなくて、舞台歌手にならなければいけない」と言われました。
-その妻屋が舞台歌手の道に進んだのは、1枚のオーディションの告知の掲示がきっかけだった。大学院在学中だった妻屋は、「やってみよう!」と思って、誰にも相談しないで、書類を出して受けに行った。
僕は大学に入ったときから、コンクールとか受けるの、本来は先生に相談しなくちゃいけないのかも知れないけど、誰にも言わずに受けに行っちゃったりしていたのです。審査の方のどなたにも面識がなかったけど、オーディションに行きました。『マクベス』(※)のバンコ役で受けて、オーディションには落ちたのですが、五十嵐喜芳さんが、僕を刺客の役でよんでくださったんです。
写真提供:公益財団法人日本オペラ振興会
※…1988年7月 藤原歌劇団公演『マクベス』
東京文化会館/大宮ソニックシティホール
指揮:ミケランジェロ・ベルトリ/演出:パオロ・トレヴィージ
マクベス:フスティノ・ディアス/折江忠道
マクベス夫人:シャーリー・ヴァレット/佐藤康子
マクダフ:市原太朗/持木 弘 ほか
同公演に妻屋は刺客役(写真右端)で出演した
それはフスティノ・ディアスがマクベス、シャーリー・ヴァレットがマクベス夫人というすごいキャストだった。その稽古場で、僕は「今何をすべきか」わかったのです。このままこの状態(大学でいい成績をとって、すでにそこそこ仕事があった)にいたらダメだ、ということがわかった。
市場でお客様にチケットを買って観ていただくオペラ、という世界をまざまざと見たのです。それは歌手の個々の能力もそうだし、小さい役の方も、圧倒的に能力の高い方ばかり。そこへスイス人の演出家がいろんなことを教えてくれるのです。
その稽古場は、僕にとっては大学では習わない、異次元のことだったのです。彼が教えるようなことを、大学で言う人が一人いる、と思い当たったのがガルディーニ先生でした。ガルディーニ先生は、そのキャリアの中で知り得た、シェリル・ミルンズ、プラシド・ドミンゴといった世界的な歌手の話をしてくれただけでなく、彼らが公演などで来日すると、招んできてマスタークラスを開いてくださいました。
プラシド・ドミンゴ公開レッスン/1988年 東京芸術大学第1ホール
それで僕は大学院一年のときから論文を書き始めて、ガルディーニ先生の授業と、どうしても取らなくてはいけない授業だけ出て、あとは稽古場に行っていました。
そういう場で、指揮者とか、いろんな方がアドヴァイスをくださった。
みんな言うんです。「留学しなさい、早く行きなさい」と。「仕事はしてもいい。仕事しながら、留学すればいいじゃないか」と。
それでイタリアへ行きました。
イタリアで最初についた先生に「技術を身につけたい」と言ったら、「それで何がしたい?」と聞いてくれた。「仕事がしたいんです」と言ったら、「コンクールを受けなさい、誰かが聴いているから」。そして「レパートリーを増やしなさい」と。1週間に1本、オペラを勉強して、2週目にコレペティの先生のところに持っていって、大体できたら次にまた1本。そうやって勉強しました。その頃、楽譜をたくさん買いましたね。
コンクールも受けましたが、ファイナルまで行くようになると、同世代で自分より上手いやつがごろごろいる、ということが分かってくる。
そんな中、ウィーンで行われたベルベデーレのコンクールを受けた時に、複数のエージェンシーからスカウトされ、劇場のオーディションを受け始めました。
G.プッチーニ『ラ・ボエーム』コッリーネ/1995年 クラーゲンフルト市立歌劇場
-その結果、妻屋は29歳でライプツィヒ歌劇場の専属歌手となり、ドイツの劇場、社会の中にある劇場文化を、身をもって知ることになります。
ドイツでは、町に劇場があることが当たり前、なのです。劇場で働く人にとってもそうだし、その町で生活している人にとってもそう。ある程度大きな町なら、必ず劇場があって、人々のルーティン(日常生活)に、はまっているわけです。ひとつの劇場にずっといる人もいるし、いくつもの劇場で仕事をする人もいる。ゲストで出演する人もいます。朝、稽古して、夜本番やって、また次の日稽古して、という日常がある。劇場で仕事をする人は、公務員、とか会社員とかと同じ、雇用関係にあるわけで、サラリーをもらっている人。ボーナスもあるし、有給休暇もある。歌手は、日本だったら職業名は、自由業とか自営業になるけど、ドイツだったら、「歌手」が確立していて区分として、「宗教歌手」「オペラ歌手」まで記載します。 専属歌手になる、というのは給料が出る、ということだから職業歌手になったという意識がありました。裕福になる、というわけではないけれど生活が保障される。専属をやめたり、次の契約まで間があったりすれば、失業手当もあり、恩給もあるわけです。解雇されることもありますが、そういう場合は、一時金が出るなど、社会保障されているのです。
G.ロッシーニ『ラ・チェネレントラ』ドン・マニフィコ/1997年 ライプツィヒ歌劇場
R.シュトラウス『ばらの騎士』警部/1998年 ライプツィヒ歌劇場
G.ヴェルディ『マクベス』バンコ/2000年 ライプツィヒ歌劇場
-イタリアからドイツに行って、苦労したのはやはり言葉。
イタリア語の語感、ドイツ語の語感は全然違う。イタリア語とドイツ語は発語が本当に違う、ということがわかってから、次第にできるようになりました。発声は一緒でいいんです、でも母音も子音も、言語によって違う。だから、それぞれの言語のカートリッジをはめる感覚です。発声の技術は変えずに、言語のカートリッジを変える感じ。
-1994年3月にドイツ、ライプツィヒのライプツィヒ歌劇場の第一バスとしてソロ契約、同劇場に2001年7月まで在籍。2002年よりワイマールドイツ国民劇場の専属。当時のスケジュールを見せてくれた。例えば2005年。この年は55公演。このほかにガラコンサートなどにも出演していた、というから、超多忙である。
妻屋秀和 2005年の公演スケジュール
月 | 日付 | 作曲者 | 演目 | 役名 | 回数 | 劇場名 | 都市 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
2 | 8p,11,14,17 | ベルク | ルル(2幕版) | 力技師 | 4 | 新国立劇場 | 東京 |
2 | 26w | ヴェルディ | ドン・カルロ | フィリップ二世 | 1 | ドイツ国民劇場 | ワイマール |
3 | 6 | ヴェルディ | ドン・カルロ | フィリップ二世 | 1 | ドイツ国民劇場 | ワイマール |
3 | 11 | ワーグナー | さまよえるオランダ人 | ダーラント | 1 | ドイツ国民劇場 | ワイマール |
3 | 25 | R.シュトラウス | サロメ | 2人のナザレ人1 | 1 | ドイツ国民劇場 | ワイマール |
4 | 7w,9,11,14,17 | モーツァルト | フィガロの結婚 | バルトロ | 5 | 新国立劇場 | 東京 |
4 | 23 | R.シュトラウス | サロメ | 2人のナザレ人1 | 1 | ドイツ国民劇場 | ワイマール |
4 | 30 | ヴェルディ | ドン・カルロ | フィリップ二世 | 1 | ドイツ国民劇場 | ワイマール |
5 | 5p,16,27 | ロッシーニ | オテッロ(ヴェネツィアのムーア人) | エルミーロ | 3 | ドイツ国民劇場 | ワイマール |
5 | 14 | ヴェルディ | ドン・カルロ | フィリップ二世 | 1 | ドイツ国民劇場 | ワイマール |
5 | 22 | R.シュトラウス | サロメ | 2人のナザレ人1 | 1 | ドイツ国民劇場 | ワイマール |
6 | 1 | モーツァルト | 魔笛 | ザラストロ | 1 | ドイツ国民劇場 | ワイマール |
6 | 2 | ヴェルディ | ドン・カルロ | フィリップ二世 | 1 | ドイツ国民劇場 | ワイマール |
6 | 4,12 | ロッシーニ | オテッロ(ヴェネツィアのムーア人) | エルミーロ | 2 | ドイツ国民劇場 | ワイマール |
6 | 10 | R.シュトラウス | サロメ | 2人のナザレ人1 | 1 | ドイツ国民劇場 | ワイマール |
6 | 18p,22,25 | プッチーニ | トゥーランドット | ティムール | 3 | プファルツ歌劇場 | カイザースラウテルン |
7 | 1,3,12 | プッチーニ | トゥーランドット | ティムール | 3 | プファルツ歌劇場 | カイザースラウテルン |
8 | 31 | ロッシーニ | オテッロ(ヴェネツィアのムーア人) | エルミーロ | 1 | ドイツ国民劇場 | ワイマール |
9 | 22 | ロッシーニ | オテッロ(ヴェネツィアのムーア人) | エルミーロ | 1 | ドイツ国民劇場 | ワイマール |
10 | 1p,3,8,22 | ヴェルディ | ナブッコ | ザッカーリア | 4 | ドイツ国民劇場 | ワイマール |
10 | 16 | ロッシーニ | オテッロ(ヴェネツィアのムーア人) | エルミーロ | 1 | ドイツ国民劇場 | ワイマール |
10 | 26 | R.シュトラウス | サロメ | 2人のナザレ人1 | 1 | ベルリン国立歌劇場 | ベルリン |
11 | 5w,18,23 | プッチーニ | トゥーランドット | ティムール | 3 | プファルツ歌劇場 | カイザースラウテルン |
11 | 16 | ヴェルディ | ナブッコ | ザッカーリア | 1 | ドイツ国民劇場 | ワイマール |
11 | 27 | ロッシーニ | オテッロ(ヴェネツィアのムーア人) | エルミーロ | 1 | ドイツ国民劇場 | ワイマール |
12 | 7,29 | プッチーニ | トゥーランドット | ティムール | 2 | プファルツ歌劇場 | カイザースラウテルン |
12 | 9 | R.シュトラウス | サロメ | 2人のナザレ人1 | 1 | ドイツ国民劇場 | ワイマール |
12 | 11w,14,17,21,26 | マスネ | ウェルテル | 大法官(シャルロットの父) | 5 | ベルリン・ドイツ・オペラ | ベルリン |
12 | 15,22 | ヴェルディ | ナブッコ | ザッカーリア | 2 | ドイツ国民劇場 | ワイマール |
12 | 23 | プッチーニ | トゥーランドット | ティムール | 1 | プファルツバウ劇場 | ルートヴィヒスハーフェン |
合計 | 55 |
pはプレミエ(初日)
wは再演プロダクションの初日
ドイツ国民劇場(Deutsches Nationaltheater/DNT)ワイマール(Weimar)
プファルツ歌劇場(Pfalztheater)カイザースラウテルン(Kaiserslautern)
ベルリン国立歌劇場(Staatsoper Unter den Linden)ベルリン(Berlin)
ベルリン・ドイツ・オペラ(Deutsche Oper Berlin/DOB)ベルリン(Berlin)
プファルツバウ劇場(Theater im Pfalzbau) ルートヴィヒスハーフェン(Ludwigshafen)
-2011年8月より海外の劇場の契約を離れ、日本での舞台も多くなり、二期会オペラや新国立劇場ほか、その活躍ぶりは、皆の知るところですが、いたって本人は淡々としています。
「僕は、贅沢ができるわけじゃないけど、歌だけで生計を立てることができますから。ほかの仕事をしながらだったら大変ですけど、すべての時間を歌に使うことができるのですから」と。
先輩たちに昔から言われました。「バスは仕事はあるからね、でもそれで終ってはダメだ」と。僕は大きいから態度が大きいように見られるでしょう、2人で向かい合って話していると僕が相手を叱っているみたいに言われるけど逆で、よく叱られていましたよ。僕には先輩も言いたくなるみたいなんです。でもね、僕も人の話は素直に聞く方だから。今でもそうですよ。「こんな役やってみたら、こういう風にしてみたら」ってけっこう、言ってくれる人がいるんです。そうすると、僕も「そうだな、そうしてみようかなって」。
W.A.モーツァルト『フィガロの結婚』バルトロ/2016年 東京二期会オペラ劇場
R.シュトラウス『ばらの騎士』オックス男爵/2017年 東京二期会オペラ劇場
V.ベッリーニ『ノルマ』オロヴェーゾ/2018年 東京二期会コンチェルタンテ・シリーズ
-今後、やってみたい役について聞いてみました。
シェーンベルクの『モーゼとアロン』のモーゼはやりたい。『エフゲニー・オネーギン』のグレーミン公はまたやってみたい役。これはP.コンヴィチュニーのライプツィヒのプロダクションで、僕、歌っているんですよ。その後、東京二期会も上演しましたね。それからR.シュトラウスの「無口な女」モロズス卿、なかなか日本で演らないけど。
-同名異作シリーズもやってみたいそうだ。
ボエーム(プッチーニとレオンカヴァッロ)とか、トゥーランドット(プッチーニとブゾーニ)。ファウストはベルリオーズの「劫罰」、グノーの「ファウスト」、ボイトの「メフィストフェレ」・・・。ファウストを題材に音楽にしたものはたくさんあるんだ、ファウスト伝説は、題材としてものすごく人気があってね。シラー、シェイクスピア、ゲーテが原作の作品はたくさんあるから、もっと紹介したい。
-舞台以外の趣味を聞いてみました。
自転車。アメリカのTREK(トレック)の大きな自転車を買って乗ってます。
ドイツではいい自転車は、プロの窃盗団に家の中まで入ってきて盗まれるから、安い自転車にしか乗らないの。
あとは山歩き。高尾山から陣馬山まで縦走とか、昔よく歩きました。歌詞を覚えるのにいいんですよ。山は誰もいないでしょ、ブツブツ言いながら歩くんです。街でやったらヘンな人だと思われてしまうから。日本はマスクするけど、ドイツではマスクしないですからブツブツ言いながら歩くとね、娘に叱られるんです。でも自分としては癖になっていますから。
愛用の自転車TREKと
今もっとも、信頼の厚いバス。堂々とした舞台姿、つややかなバスの美しい響き。中学生だった妻屋の資質を見抜き、見守り、オペラの舞台へ、そして本場ヨーロッパへと送り出していった人々のリレーだったようにも思われます。この後、妻屋は兵庫芸術文化センター「魔弾の射手」隠者、10月共同制作「アイーダ」(札幌・神奈川・大分)でランフィス、その後新国立劇場で『ファルスタッフ』ピストーラ、と大きな舞台が続きます。 オペラの舞台の中に響く、バス妻屋秀和に、ご注目ください。